障害があるということ



待合室でASDのちびっこが本棚の本をどさどさ引きずり倒してしまった。

1人の患者様が「なぜそんなことをするんだ。自分の子なら張り倒してやる」と怒鳴って、その子に掴みかかろうとしたので、あわてて、事情を話し止めに入った。「病気なら仕方がない」と言われた患者様は、当然悪気はない。

ちびっこがそこに目がいかないように、そうならないようにきちんと構造化しなかった、医院の責任なのだ。

お身体が不自由だったりすると目にその障害は見えるので、ご理解いただける。でも、見えない障害を持つ子供たちや方々、その親御さんたちは周りからの理解が難しい。

配慮できなかった未熟さに反省に凹みそうでした。

「障害児あるいは障害者」というと、どんな人たちのことを言うのだと思いますか?目が見えなかったり、耳が聞こえなかったり、手足が不自由だったりというかだ想像して、かわいそうとか、不幸な人と思っていたのではありませんか?

もう10年以上前、作業所を立ち上げて焼酎を作った。その時、麹用の米を市内の小学生と作って、その時に子供達への投げかけた言葉だ。

一緒に米作りをして、子供たちが感じたことは「かわいそうでふこうでもない、私たちと同じで元気に仕事をする人たち」ということだった。

そして、人は誰でも苦手なことがあって、同時に得意なこともある。苦手なことがちょっとだけ多くても、かわいそうでも不幸でもないんだ。苦手が多いから、何もできないと決めつけて「障害児、障害者」としてしまうこと、その苦手さを知らなかったり、わかろうとしなかったりするために、助けを求めてもわかってもらえないことで、本当の不幸になってしまうこと。

どんなに苦手があっても、その苦手を理解して学校や社会の中で一人の人として生きて行くために、みんなで支えてあげることができたら苦手は苦手でなくなり、みんなと同じということになり、そうやって支えることが「福祉」なんだということ。

たくさんの気づきがあった。

今日の出来事を思い出し、自分の中の福祉が時を経てあせていたのではないかと、心に刺さる。

JOYのコンサートをしよう。と強く思ったひ日。